2009年5月12日火曜日

HAPPY BIRTHDAY NANA


誕生日おめでとう!
名前がどう決まったかを告白しておかなければなるまい。
当時、父は当然名前に悩んでいた。
その時、実家の関係で、名前をみてくれる人がいるとか
いうことで、その人の名前も知らないし
勿論今はどうゆう風にその電話番号を知ったかも忘れたが
とにかくその人に電話して、
こうこうこうゆう画数で、と話していたら
2つ3つ、こうゆうのもありますけど
きめるのは あくまでご両親で!
といわれながら、聞いていたのだが
NANA・・・と言われた瞬間、
ピンポン!!!と僕の時計が鳴った!
岡田NANAはその後の付け足しで
出てきた話だ。
この両親の遺伝子と
兄・姉の運命を背負って
生まれてきてくれて
ありがとう!

2009年5月10日日曜日

我が家のゴールデンウィーク



我が家のGWが始まった。


今日は母の日


12日は次女の日


14日は父の日


21日は長女の日





写真は、今現在のことなど夢の夢の頃。


両親にとってみれば、子育て時代ということになる。





やはり、あとからほのぼの思うもので


真ん中は、道に迷っているばかりーという唄の文句に近い。





CMで、母の日は、母に会う日というフレーズがあって


母の日は、墓参りにいくのが良いようで、


今、それにのって、墓周りの草取りがてら


お墓参りにいって来た。


妻は、草取りを、かんねつにやるほうなので


証拠写真も撮ってきた。



すっきりしたお墓に向かって

『母ちゃん ありがとう』

2009年4月20日月曜日

私の『GODFATHER』

  珍しい写真を見つけた。
50年前くらいだろうか。
初めて見るこの写真、タイムマシンにのったようだ。
右端は上木のおじさん。
列車から顔を出しているのは京都のおじさんだ。
父も母も若い。
まるで自分版『ゴッドファーザー』を見ているようだ。
みんな背広が今よりかっこいいぞ。
母は美しい。
僕はどっかのおぼっちゃまのようにおすましだ。

しかし昔の思いではこんなに華やかではない

広場で行われた「すもう大会」に負けて
母の胸で泣いたこと。

10円玉を何故僕が持っているのかと
母にきつく問い詰められたこと。

家を出て行こうとする母を
「母ちゃん、行くないな」と
泣いて止めたこと。

夜遅くまで仕事を止めない
母の後姿をただ見ていたこと。

母と見ていた映画がつまらないので
途中で帰ろうと言って
そのおかげで父が命を救われたこと。

酔っている父を、見知らぬ人の家まで
迎えに行って、その家の自分と同じくらいの
歳の子供に、「はよう行ってまえ!」
と言われたこと。

痴呆の母を、施設に置いて帰ってこられる
自分がいたこと

足が腫れ、呻いている母を
施設において、帰ってくる自分が
いたこと。

そして
誰がなんと言っても
こうゆう自分には、晩年に
同じ境遇が回ってくるだろう
とおもうこと。

母のあどけない笑い顔は、僕の救いだ。

2009年3月22日日曜日

卒業式:前夜

 不思議な夜だった。
時が止まったような、生あったかい
狐につままれたような、別の世界があった。

長女の大学卒業指揮を明日に控え、
我々夫婦は、袴を着付けてくれる祖母とともに
京都に居た。
たまたま東山を灯篭でうめるという
花灯篭という企画があるというので
半信半疑でタクシーに乗った。

タクシーを降りると、いきなり細い坂道を
照らす灯篭のまっすぐ上に八坂の塔が
ライトアップされていて、まさに絵葉書。

ゆっくりと花灯篭の道を歩いていくと
次々ときれいな景色が現れて、祖母を
喜ばせた。
二年坂を通り、ねねの道を歩いて
ただただ、この夜に酔った。

八坂神社へ着いた時、
長女と4年半前、初めて京都を
訪れ、この神社のこの同じ場所から
母に電話したことを、二人ともはっきり
覚えていて、時の魔法、
少し長い夢を見ていたような、浪漫に
再び酔った。

彼女もあの時は18歳。
もうすぐ23になろうとしている現在
いつの間にか、大人になった。
卒業式の前の晩、
八坂の神様が見せてくれた
あたたかい夢。
京都の神々は、長女を
祝福してくれたようだ。
ありがたい。
一生忘れない京都になった。

2009年3月4日水曜日

嗚呼!卒制

長女が無事卒業の運びとなり、京都の美術館まで、卒制を見に行ってきた。
中でも優秀と認められたものには(選考基準は聞いてないが)、各学科に
5名程《学科賞》という称号が与えられる。親が来る以上、これはゲットして
おかないとやばいと思っていただろうし、いただいた今となっては笑い話
だが、長女の気の使いようは半端ねえ!って感じだったろうし、本当に
いただいてありがたい。おめでとう!
努力のあとがありありの仕上げのきれいな作品だった。
縫製技術を身につけたのがうれしかった。

彼女の友達たちは、われ等夫婦を見て、よく似た夫婦だと言ったとか。
27年ほど一緒にいると、やっぱり似てくるものらしい。

つぎの朝、思いがけない幸運が待っていた。
彼女の買ってきた新聞に、卒制始まる!の記事が載っていたのだが
その紹介写真が、まさに彼女の作品ブースだけをそのまま写したもので
これはちょっとした奇跡だ!
親バカ夫婦が、この新聞を求めてこのあとコンビニをハシゴしに
走ったのは言うまでもない。
京都の、昔の恩人の住んでおられた田中野神町のすぐ近くの
こうした長女への幸運は、どうしても支えられているとしか
思えない。ありがとう先生!ありがとう母ちゃん!
ありがとう!京都のおじさん!

2009年2月15日日曜日

WE CRY

このところ不思議なことが起こった。
MASAが、何気なく置いていった何枚かのCDが
はずれなく、みんな面白くて、こうゆう若いバンドに
はまることって、まずない自分にはとっても
めずらしい現象といえる。
とくにこのSCRIPTの WE CRY
ってのがいい。
http://www.youtube.com/watch?v=Vg6RoXIuhUY&feature=related

スティングの息子と言われると信じそうな、いい声だ
POLICEの現代版といえるか。

次が、ザ・フージアーズ
http://www.youtube.com/watch?v=lSlHGK-n4_Y
いかにもイギリスらしい、なにか懐かしささえ感じさせる
いいバンドだ

そしてベン・フォールズ
http://www.youtube.com/watch?v=mkiMdAPmJLU&feature=related
トリオの頃から、ピアニストにしては、ロック志向の強い人だ
ポップにいけばいいのを、わざわざぶち壊すタイプだ
この曲は、素直な方だが毒は失われていない。

いま携帯の中はこの3枚しか入れてなくて
この3枚を聞くのをたのしんでいる。
最近のCDをこれだけ楽しめるのは
本当に久しぶりなのではないだろうか。
何かが起こっているような気がする。
ボクが変わったわけではないので
時代が一回りして、戻ってきたという感じか。
気づかせてくれたMASAにただ感謝。

WE CRYの歌詞を見たらこれが又ピタリ!

(鳥はいつか飛び立つ
どんな薔薇もいつか枯れる
子供の巣立ちは辛いもの 家を出て、行き着く先は
誰も知らない
飲んだくれて 一人酔いつぶれるのか
生きるすべを教えろ 一生の知恵を
子供たちに真実を教え 正直であれと願え
置手紙で知らされるよりいい......)
THE SCRIPT [We cry]より抜粋

2009年2月3日火曜日

光と影の街・東京 その2

MASAと、ビートルズの曲だけのライブハウス「アビーロード」へ行った。
行ってみて驚いたのは、この店の真裏に、MASAのバイト先の事務所が
あったとのことで、まさか真裏で毎夜こんな楽しいことがあったとは
実に変な感じだとの事。
この店に寄る前に、彼の昔のバイト先のビルへ、夜景を見に行ったのだが
ボクの目的は、彼がどんなところで働き、苦しみ、少しは面白い経験をし
生きてきたのかを、自分の感覚でその場所に立って共有したいというものだった。
彼は私のそんなリクエストに見事に応え、そのシチュエイションを細かく語って
くれた。
ボクはあたかも自分がその場でバイトをしているような錯覚に心地よく酔った。
そのバイト先に来たのは、当時以来始めてだそうで、、やはりここには、
あのバイト状態には、二度と戻りたくないことを、改めて確認したとのこと。
そして、今のこの立場だからこそ味わえる、なつかしさを少し楽しんでいるように見えた。

たまたまその場所でやっていたのが、期間限定のインドの若手作家の美術展?で
その1に出てきた影絵のようなシチュエイションはそのうちの1つである。
CGと思われるが、自分のシルエットが使われるところが、リアルで怖い。

話が最初に戻るが、アビーロードは以前何回か来ていたので、だいたい知って
いたのだが、MASAは、オヤジが、変なライブへ行かなければいいがと
心配していたらしい。実際はPARROTSのライブを楽しんでくれて、我々は
世代を超えてビートルズを満喫した。
友と一緒に又来たいと言っていた。
店を出てから、この看板(写真)を改めて見たのだが
外タレさん達が、いっぱい遊びに来ていて
MASAを驚かせた。
ステイング・BOZ・ブライアン セッツァー
アークティックモンキーズ・オアシス
スティーブ ルカサー・ボンジョビ・・・・
日本一といわれるジョンレノンばりのボーカリストも
楽しめた GIROPPONの夜であった。